今回と次回(第13回)は、大山道南側の町の問題について検証を試みます。
まずは前回(第11回)示した絵図を再度見てみましょう。出典は「市中取締続類集」[53](安政4年、1857、国立国会図書館所蔵、66、67コマ)です。
前回も述べたように「町方書上」(国立国会図書館所蔵)によれば、表伝馬町一丁目には「北側」と「南側」がありました。図の「赤坂伝馬町通」(=大山道)の右側(南側)の「赤坂伝馬町一丁目」が、この「南側」に相当すると考えられます。
ところで、ありがたいことに、「町方書上」には「町内間数」として各町域の寸法が記されているので、これを手がかりに検討を進めましょう。
表伝馬町一丁目「南側」の寸法は次のようにあります(「町方書上」32、34コマ)。
赤枠内を翻刻すると次の通り。
カッコ内にメートル換算の数値を補いました。京間1間(6尺5寸)=1.97mとして計算しています。
一方、田町一丁目の寸法は次のようにあります(「町方書上」33、10コマ)。
赤枠内を翻刻すると次の通り。
ここで「西より南」となっているのは、田町一丁目が北西から南東方向に傾いているからで、大山道に近い方が「西」、遠い方が「南」とされています。
さて、上記のように田町一丁目の長さは表側で91.5m。しかし、5千分1の「東京実測図」(明治18年)で街区の長辺を測ってみたところ、大きく異なっており、およそ130mありました。つまり、江戸期の田町一丁目の町域は、街区全体ではなかったのです。
さらに注目されるのは、上記2町の寸法において、★印を付けた裏行(奥行)がともに18間4尺で完全に一致していること。ここから、表伝馬町一丁目「南側」(南之方)と田町一丁目(西之方)は境界線を挟んで隣接していたと考えられます。
大山道の南側は、冒頭に示した「市中取締続類集」の絵図の通りで正しかったのです。
(つづく)