『写真のなかの江戸』を歩く 第15回

酒井伴四郎の歩いた赤坂(ブログ版)その1 「赤坂の町並み」その15

酒井伴四郎(さかい・ばんしろう)という紀州藩の下級武士が、幕末の江戸で過ごした日々の出来事を日記に書き残しています。本書のコラム3「紀州藩士・酒井伴四郎の歩いた赤坂」はその日記にもとづいたもの。ただし、紙幅の都合で書けなかったことが多々あるので、日記の内容を赤坂の街の現状に照らしながら、あらためて紹介して行きたいと思います。

伴四郎については既刊書籍がいくつかありますが、なかでもその食生活に焦点をあてた青木直己『幕末単身赴任 下級武士の食日記』(ちくま文庫)は読みやすく、おすすめです。また、原文(翻刻)を読んでみたい方には、万延元年(1860)と元治2年(1865)の日記が全文収録された小野田一幸・高久智広『紀州藩士酒井伴四郎関係文書』(清文堂出版)。このほか、日記の内容を下敷きにした『勤番グルメ ブシメシ!』という漫画もあり、さらにそれを原作としたテレビドラマも放映されました。江戸の史料で、このように研究書から漫画まで幅広く利用されるのは異例のことです。その内容の面白さで、多くの人の心を捉えている日記なのです。

 

伴四郎が暮らしていたのは、上の切絵図に「紀伊殿」とある紀州藩中屋敷(本書180~181頁、バルーン06番)の長屋でした。江戸市中の寺社への参詣、名所の見物に遠出することもありましたが、日常的には買い物などで近隣の町を歩いていました。そうした近場の地名として日記に出てくるのが、赤坂、四ツ谷、麹町、そして「坂下」です。とくに元治2年の日記には「坂下」が頻出します。

しかし、この「坂下」とはどこなのか。切絵図などの地図史料でも他の文献史料でも見たことがありません。紀州邸周辺の坂といってまず思い浮かぶのは、敷地東側(表門側)の紀伊国坂(右図)です。したがってこれは、その坂下に位置する赤坂の町の別称(通称)ではないか、という見当はつきました。ただ、屋敷沿いにはもう一つ、北西側を南へ下る鮫ヶ橋坂(左図)があって、こちらも坂下に町があります。

そこで、「坂下」が赤坂である裏付けがほしいと思い日記を追って行くと、万延元年(1860)8月28日の記事に「坂下之(の)一ツ木」とあるのを見つけ、ほっとしました。「一ツ木」というのは、切絵図にも記されている赤坂の町名だったからです。

(つづく)