『写真のなかの江戸』を歩く 第16回

 酒井伴四郎の歩いた赤坂(ブログ版)その2 「赤坂の町並み」その16

伴四郎の日記に「坂下之(の)一ツ木」という記述を見つけた、というのが前回の話でした。

左の切絵図の矢印のところに「一ツ木町」とあります。さらに右の「御府内往還其外沿革図書」を見ると、通りの西側(左側)が同町であったことがわかります。「一ツ木」とは赤坂にあった町の名前なのです。

実は当初、「坂下」というのは、赤坂といっても紀伊国坂直下の元赤坂町か、せいぜいその南に続く表・裏の伝馬町のあたりまでだろう、と予想していたのですが、大山道より南の一ツ木町も含まれるというのはやや意外でした。すなわち「坂下」とは、紀州藩中屋敷から見て紀伊国坂の下に当たる、赤坂の町全体(田町なども含む)を指していたと考えていいでしょう。

今は幅の広い青山通りで元赤坂(北側)と赤坂(南側)は分断されていますが、当時の大山道(前掲図参照)はずっと狭く、その南北も一体の町という感覚だったはずです。また、「坂下」という呼び名は、自分たちの住まいから見て赤坂の町が坂の下になる、紀州藩士の間で用いられた通称だったと推測されます。

現在、一ツ木町という町名は消えましたが、その名は「一ツ木通り」に残っています。青山通りから千代田線赤坂駅のほうに通じる、かつて同町が面していた(前掲切絵図で「一ツ木町」と記された)南北の道です。写真はちょうど切絵図の矢印のあたりから南の方向(矢印の方向)を撮影しました。通りの右側(西側)が旧一ツ木町、正面に見えるのは赤坂サカスのBizタワーです。

この一ツ木通り、今は飲食店の入るビルやホテルが立ち並んでいますが、40年ほど前までは木造二階建ての個人商店が並ぶ庶民的な商店街でした。赤坂の現状からは想像がつかないと思います。写真に写るあたりには、右側に肉屋、豆腐屋、左側に玉子や豆を売る乾物屋があり、もう少し先の右手には銭湯もありました。

(つづく)