『写真のなかの江戸』を歩く 第17回

酒井伴四郎の歩いた赤坂(ブログ版)その3 「赤坂の町並み」その17

 

日記に「坂下之(の)一ツ木」とある万延元年(1860)8月28日、伴四郎は赤坂で何をしていたのでしょう。次に日記のその部分を引用します(原文を読み下し文としました)。

 

昼後、坂下の一ツ木の玉屋へ飛脚頼みに行く。その帰るさに紙屋にて叔父様に頼まるる美濃紙一畳(帖)買い、また筆を買う。折節、上(うえ)には帰御(きぎょ)にて往来留めになり、幸いに拝み申し候。

 

この日の午後(昼後)、伴四郎は坂下(赤坂)の一ツ木の玉屋へ飛脚を頼みに行っています。玉屋は飛脚屋なのでしょう。伴四郎は国元の和歌山に妻と幼い娘(数え2歳)を残しての単身赴任の身でした。もしかしたら、妻に宛てた手紙を出したのかもしれません。

その帰りには、紙屋で「叔父様」に頼まれた美濃紙(美濃産の紙)を一帖買い、さらに筆を買っています。「叔父様」というのは、叔父で藩士の宇治田平三のこと。伴四郎はこの叔父ともう一人の藩士・大石直助と三人で藩邸の長屋に同居していました。美濃紙の一帖というのは48枚になります。

伴四郎の長屋は紀州藩邸の北東側(四谷側)にあったので、赤坂から帰るには紀伊国坂を上る必要がありました。参考までに、切絵図に一ツ木町からの帰り道の最短ルートを赤線で示しました(もちろんこの日、伴四郎が実際にこの経路を通ったとは限りません)。

写真は赤線のルートのうち、大山道(現・青山通り)から北に入る道の現状。道としては残っていますが、今は鹿島建設本社の巨大な2つのビルに挟まれています。

さて、伴四郎が買物を終え、藩邸に戻ろうとしたところ、ちょうど「上」の「帰御」で「往来留め」となっていました。ここで「上」とは伴四郎の主君である殿様(紀州藩主)のこと。外出していた藩主が屋敷に帰るところで、その行列のため往来が通行止めになっていたのです。

(つづく)