『写真のなかの江戸』を歩く 第18回

酒井伴四郎の歩いた赤坂(ブログ版)その4 「赤坂の町並み」その18

 

この日(万延元[1860]年8月28日)の午後、伴四郎が赤坂一ツ木町から藩邸に帰ろうとしたところ、ちょうど殿様(藩主)のお帰りに遭遇しました。なお、前回書き忘れましたが、日記によると同日の天気は「晴天」です。

当時の紀州藩主は徳川茂承(もちつぐ)。2年前に藩主になったばかりの17歳(数え)の若い殿様でした。伴四郎は殿様より10歳年上、この年に27歳になっています。和歌山に残してきた妻「ひろ」の年齢は不明ですが、娘「うた」は前年生まれの2歳(前述)でした。

さて、外出先から帰ってきた茂承は藩邸の表門を入ったはずですが、その表門はどこにあったのでしょう。幸いこの屋敷については、江戸末期の作成とみられる、きわめて詳細な屋敷絵図「紀州徳川家赤坂邸全図一分計」が宮内庁宮内公文書館に所蔵されています。同絵図によると、表門は弁慶堀沿いの紀伊国坂を上がって左手にありました。

 

左図「紀州徳川家赤坂邸全図一分計」(宮内庁宮内公文書館所蔵)
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Kobunsho/Detail/4000386930000?searchIndex=2
を加工して作成

 

ただし、絵図に見えるように表門(表御門)は直接道に面しておらず、敷地内の三角形の広場に向かって東面していました。紀伊国坂の勾配が均された現在だと、坂の途中で赤坂御用地内に入ったあたりになるでしょうか。写真は現在の紀伊国坂。図上の矢印が写真の撮影方向です。

この屋敷絵図は宮内庁ホームページで画像が公開されており(上記URL)、見たい部分の拡大なども自在にできますので、是非ご覧になってください。

(つづく)