『写真のなかの江戸』を歩く 第20回

酒井伴四郎の歩いた赤坂(ブログ版)その6 「赤坂の町並み」その20

 

伴四郎の殿様、徳川茂承(もちつぐ)の住まいだった紀州藩中屋敷赤坂邸の敷地は、現在ほぼそのまま広大な赤坂御用地に引き継がれています。さすが御三家だけあって、敷地内に建っていた御殿もまた広大でした。下が幕末の屋敷絵図に描かれた御殿です。

「紀州徳川家赤坂邸全図一分計」(宮内庁宮内公文書館所蔵)https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Kobunsho/Detail/4000386930000?searchIndex=2を加工して作成

 

御殿の建物は藩邸北側の台地上、現在の迎賓館の建物と前庭あたりに展開していました。

東(右側)に表御門、中央から東側が接客・儀礼のための「表」、西側が夫人や奥女中が暮らす「奥」、この絵図には部屋名が記されていませんが、おそらく中央南側部分が藩主の日常的な生活空間とみられます。また、「奥」に設けられた横3列の長屋状の建物は奥女中の住まい、長局(ながつぼね)です。

ところで、伴四郎は、というと邸内の「相之馬場之御長屋」に住んでいました。上の図の左上(北西側)に「相ノ馬場」とありますが、その北側から西側に連なる表長屋のどこか、ということになります。

「紀州徳川家赤坂邸全図一分計」(同上)を加工して作成

 

長屋があった場所は、今では迎賓館の前庭にあたります(現状写真)。伴四郎は「坂下」の赤坂から紀伊国坂を上がって、藩邸北端の四谷に近いほうにあった長屋に帰ったのでした。

(つづく)