『写真のなかの江戸』を歩く 第22回

酒井伴四郎の歩いた赤坂(ブログ版)その8 「赤坂の町並み」その22

 

江戸への単身赴任中、伴四郎はさまざまな寺社を訪れています。そこには浅草寺や芝神明社など各所の有名寺社も含まれますが、屋敷近所の赤坂では、前回の「不動さん」こと赤坂不動尊・威徳寺(いとくじ)、それともう一つ、「黒田之(の)天神」に参詣したことが日記に見えます。

この「黒田之天神」とは、福岡藩黒田家の中屋敷にあった天満宮のことです。

江戸には邸内社を公開している武家屋敷が数多くありましたが、黒田家の天満宮もその一つでした。そうした邸内社の中でも、とくに参詣人が多く名を知られていたのが、水天宮(赤羽橋の久留米藩邸)と金毘羅社(虎ノ門の丸亀藩邸)です。福岡藩の場合は国元の太宰府天満宮の「模(うつ)し」として、中屋敷赤坂邸内に同社が建てられ、一般公開されていました。

上の切絵図(「赤坂絵図」、国立国会図書館所蔵)で、「■松平美濃守」とある部分が福岡藩黒田家中屋敷(■は中屋敷を表す記号)。溜池交差点(東京メトロ溜池山王駅付近)の西側、赤坂二丁目の高台が跡地になります。これは第19回で紹介した、小林清親「赤坂紀伊国坂」の画面遠景に描かれた屋敷(明治以降も黒田侯爵邸として存続)でもあります。

左は「絵本江戸土産」八編(国立国会図書館所蔵)より、天満宮の図。丘の上に社が建っていたことがわかりますが、この場所は邸内の西隅で、崖に臨んで眺望が良かったといいます。

右の現状写真は黒田邸跡を北西側から撮影。「赤坂二丁目交番前」交差点(切絵図の矢印の位置)で、奥に向かって高台に上っていく坂道(近代に通されたもの)が見えます。天満宮の正確な位置は定かではありませんが、屋敷の西隅であれば、このあたりということになります。

さて、伴四郎が天満宮を訪れたのは、万延元年(1860)10月25日。同社をひとりで参詣したあと、黒田邸前の店で「どぜう・ぶた鍋」を食べ、酒を2合飲んでいます。さらにその後、一ツ木の鰻屋に入り、「うなぎ二鉢」でふたたび酒2合を飲み、うなぎ「一切レツヽ」と焼芋を土産に帰宅しました。

まだ数え27歳の伴四郎は食欲旺盛で酒も飲みます。この日は、どじょう鍋(ぶた鍋)屋と鰻屋を「はしご」しているわけですが、帰宅後は酔っ払って気分が良くなり、同居の叔父(宇治田平三)に対し歌を唄い管(くだ)を巻いたため、叱られたとのこと。この点、「大ニ酔て帰り」「くた巻候」などと日記に正直に書いています。しかしその後、伴四郎は気分が悪くなり、「皆吐出し」、あとの記憶はなかったそうです。

単身赴任の身で食道楽の伴四郎、このように赤坂の町での食事と飲酒を満喫していました。

ちなみに、黒田邸の直下(現状写真を撮った北西側)の赤坂田町五丁目は、いわゆる岡場所(私娼地)でした。実際どうだったのかはわかりませんが、日記にはそういう所に寄ったという記述はありません。

(つづく)

 

*付記1

本書『写真のなかの江戸』コラム3の注7(195頁)で、黒田家の天満宮が公開されたのは『武江年表』によって文久3年(1863)としました。しかし、すでに下記論文で岩淵令治氏が別の史料にもとづいて、万延元年(1860)には公開されており、『武江年表』の記事は疑わしい、と指摘していました。いうまでもなく、文久3年の公開開始では、伴四郎が万延元年に参詣できるわけがありません。日記には元治2年(1865)の分もあるため、コラム執筆時に混乱していました。お詫びいたします。

・岩淵令治「塀の向こうの神仏 近世都市社会における武家屋敷」(『都市文化の成熟』東京大学出版会、2006年)。

 

*付記2

本ブログ第14回で「赤坂桐畑」が切絵図に見えないと書きましたが、今回示した切絵図「赤坂絵図」の黒田邸(松平美濃守)北側の通りに「桐畑ト云(いう)」との記載がありました(青い楕円部分)。「見えない」という記述は誤りであり、訂正いたします。ただし、これは同所付近の町の俗称と見られ、実際の桐畑(「桐木御植付場所」)を示すものではありません。したがって、「桐木御植付場所」を記載する「市中取締続類集」の図が重要であるという第14回における指摘については、訂正の必要はないと考えます。