『写真のなかの江戸』を歩く 第5回 「赤坂の町並み」その5

赤坂御用地に隣接する元赤坂一丁目に暗渠らしき細道があることは、二年ほど前に気づいていました。当時はそれ以上調べもしなかったのですが、今回、赤坂川のことを書くにあたって思い出し、古地図を探してみると…それは明治16年の地図(『五千分一東京図測量原図』)に、はっきり開渠の水路として描かれていました。

左端に見える旧紀州藩中屋敷(明治16年当時は仮皇居)の庭園の池から水路が続いていますが、現在、矢印のところ、台形の街区を横切る部分が暗渠化し、ビルの谷間の狭い路地(細道)になっています(次回写真掲載予定)。

明治前半の地図にあるので、江戸以来の水路の可能性が高いと思われますが、描かれている江戸期の地図が、なかなか見つかりません。しかし、たぶん「町方書上」(国立国会図書館所蔵)には載っているだろう、と思い、調べてみるとやはり記事がありました。次に示すのは、暗渠の場所にあった町、元赤坂町の書上(文政10年、1827)の一部です。

 

傍線部の「横切大下水」。西南の方の紀州藩邸より元赤坂町(現・元赤坂一丁目の北端部)の区画を「横切」っている、とのことですから、明治の水路はこの大下水そのもの、そして現在の暗渠がその跡であることは、間違いないでしょう。さらに下の画像の傍線部を見てください。大下水は往古(=大昔)このあたりで「赤坂川」と呼ばれていた、とも記されています。

記事の中でもとくに目に留まったのが、大下水の幅が「平均六尺」という部分。現在の暗渠(細道)の幅も6尺(1.82メートル)程度であることを思い出したからです。

これは確かめるしかありません。私は現地で実測してみることにしました。

(つづく)