赤坂見附で、大下水の流路はどうなっていたのでしょうか。
上の図は「市中取締続類集」[53](安政4年、1857)の67コマ(国立国会図書館所蔵、NDLオンライン)。本書183頁にも載せた図(の一部)ですが、ここでは北が上になるように向きを変えています。大下水は弁慶堀の南側を上水堀と並行して流れた後、図の左下に見えるように、赤坂伝馬町一丁目の北角に沿って直角に折れていました。
ここでは開渠のように描かれていますが、【写真14】の画面に水路は見えません。町屋の前、下水が通る部分が帯状に白っぽく写っており、明らかに下水に蓋がされています(蓋の材質は不明)。
上の明治16年『五千分一東京図測量原図』には上水、下水ともに破線で描かれていて、いずれも暗渠であることが判明します。ただし、大下水のほうはこの下流ですぐに開渠となり、溜池(181頁15番)の脇を流れていました(青○印)。
なお、青○印の位置には現在、赤坂見附駅の出入口を兼ねたビックカメラのビルが立っています。その前(東側)の外堀通りは、まさにかつての溜池(外堀)の上に敷かれているのです。
この先、大下水は溜池の脇を通り、榎坂(現・赤坂一丁目)から愛宕下(現・港区西新橋ほか)へ向かい、下流部では桜川と名を変えます。桜川といっても幅の広い側溝で、本書【写真1】「愛宕山から見た江戸のパノラマ」に写る真福寺(86頁、06番)の門前を流れていました。しかし残念ながら、同写真では建物の陰になり、写っていません。
ところで、上の地図では溜池の様子が変です。【写真14】では水を湛えていた溜池も、「明治10年に堰の石を僅か二尺ほど除いたらあっという間に干上がって沼から細流に」なってしまいました(俵元昭『港区史跡散歩』)。水が抜けた後の明治16年のこの地図では、湿地の中に細い流れが描かれています。
地図に描き入れた赤線は、現在の外堀通り(上)と青山通り(下)の道路境界線(おおよそ)。このように、かつての街区は大きく削られ、【写真14】の正面に写る赤坂伝馬町一丁目東側は、今では大部分が交差点付近の路面になっています。
地図で赤○印を付した赤坂伝馬町一丁目の北角の推定位置を、現状写真の上に赤い楕円で示しました。弁慶堀の南岸から元赤坂方向を撮影していますが、かつての北角の町屋の位置は、外堀通りを渡る横断歩道の中央付近と思われます。写真の左手奥は渋谷方面へ向かう青山通り。玉川稲荷(180頁02番)は画面の右端あたりにありました。
(つづく)