『写真のなかの江戸』を歩く 第11回 「赤坂の町並み」その11

前回(第10回)、大山道(現・青山通り側道)の南側の街区を田町一丁目(北角)としました。その根拠は、次のような地図史料です。

 

左上「御府内往還其外沿革図書」(文化5年、1808)、右上「赤坂絵図(切絵図)」(嘉永3年、1850)、左下「御府内往還其外沿革図書」(文久2年、1862)、右下「東京実測図」(明治18年、1885)。後掲図と合わせるため、各図とも右を南としました。矢印は大山道です。

左上、左下、右下の図では、大山道南側(右側)の街区全体が田町一丁目とされています。右上の図では街区の外側に「赤坂田町一丁目」「赤坂表伝馬丁(町)一丁目」の2つの町名が記されていますが、後者は大山道北側(左側)の町名と考えれば、他図と整合します。こうした地図史料によって、江戸期からこの街区全体が田町一丁目である。そう思っていました。

しかし実際には、同街区の大山道に近い側は、江戸期には赤坂表伝馬町一丁目だったようなのです。次の図を見てください。

上は「市中取締続類集」[53](安政4年、1857、国立国会図書館所蔵)より、66、67コマを接合したもの。本書183頁、また本ブログ第9回にも載せた図です。

ここで「赤坂伝馬町通」は、位置からして間違いなく大山道。そして、その南側(右側)に「赤坂伝馬町壱丁目」とありますが、前掲の地図史料によれば、ここも田町一丁目のはずです。したがって最近まで、この部分は間違いだろう、と思っていました。しかし、実はこれで正しいようなのです(町名は正確には「赤坂表伝馬町壱丁目」)。

「町方書上」(国立国会図書館所蔵)によれば、表伝馬町一丁目には「北側」と「南側」があり、後者は大山道の南側に所在したらしい。不覚にも、今まで「町方書上」のこの記載を見落としていました。

ただし、前掲「東京実測図」に見えるように、大山道南側は明治期には確実に田町一丁目であり、前回(第10回)の写真に入れた「旧赤坂田町一丁目北角」という文字は、明治期の町名とすれば、間違いではないのですが。

次回(第12回)、この問題について詳しく検証したいと思います。

(つづく)