酒井伴四郎の歩いた赤坂(ブログ版)その5 「赤坂の町並み」その19
殿様(徳川茂承)がこの日の午後、どこから帰ってきたのかは不明ですが、往来留めとなっていたのは表門のすぐ外の、紀伊国坂一帯であったことは間違いないでしょう。
さて、紀伊国坂といえば、小泉八雲の『怪談』の一話、「むじな」の舞台としても知られています。その話とは…
ある晩、男が真っ暗な坂を足早にのぼって行くと、堀端にうずくまってさめざめと泣いている女がいた。身投げをするのではないかと心配した男が声をかけると、女は立ちあがりくるりと向きなおったが、なんとその顔は…。そう、「のっぺらぼう」の話です。
「むじな(狢)」とはアナグマやタヌキのこと。とりわけタヌキは昔話にあるように、人を化かすと考えられていました。女の正体は、紀州藩邸の深い森に棲むタヌキだったのではないでしょうか。
そんな話がまことしやかに語られるほどに、紀伊国坂の夜は淋しい道だったようです。しかし、坂が外堀通りという大通りとなって街灯が点(とも)り、弁慶堀沿いに首都高が通された現在でも、夜中にはあまり歩きたくない道です。
というのも、お堀と赤坂御用地の間を通る道ゆえ、坂の下から四ツ谷駅近くまで徒歩10分ほどの間、道沿いにあるのは延々と続く御用地の高い塀と一か所の門だけ。それ以外に建物は一切無く、車の通行が途絶えれば、まったく人気(ひとけ)が無くなるからです。そんなところを夜ふけに通って、もし道端にうずくまる女性がいたら…。赤坂御用地の森には、今でも野生のタヌキが生息しているとのことですから。
ところで、かつての紀伊国坂はどんな景色だったのでしょう。
その風景は歌川広重『名所江戸百景』の一枚にもありますが、写実性にやや難があるので、ここでは小林清親の版画「赤坂紀伊国坂」を紹介します(『清親画帖』、国立国会図書館所蔵)。明治に入ってからの絵なので、人力車、電線、ガス灯が描かれていますが、そうした点景をのぞけば、伴四郎が歩いた幕末とほとんど変わっていないはずです。
坂の下の家並みが赤坂の町、左に弁慶堀。この風景を見ると、伴四郎が赤坂を「坂下」と呼んでいた理由がよく分かります。また、「むじな」が化けた女がうずくまっていたというのは、左の堀端あたりでしょうか。
描かれた「森」は、左から伏見宮邸(旧彦根藩井伊家中屋敷、現・ホテルニューオータニ)、日枝神社(山王社)、遠方の中央やや右は、今の溜池交差点付近の高台を占めていた黒田邸(旧福岡藩黒田家中屋敷)。一方、ほぼ同じアングルの現状写真を見ると、ニューオータニ敷地となった左手の森は変わりませんが、「坂下」には高層ビルが林立しています。
(つづく)