『写真のなかの江戸』を歩く 第21回 

酒井伴四郎の歩いた赤坂(ブログ版)その7 「赤坂の町並み」その21

 

伴四郎が「坂下之一ツ木」と記した万延元年(1860)8月28日の日記には、次のような記事もあります(原文を読み下し文としました)。

 

夕方、民助・房助、不動さんへ参り候わぬかと誘い来たり候えども、予参らず。

 

この日の夕方、伴四郎は民助・房助の二人に「不動さん」への参詣を誘われましたが、行かなかったとのこと。民助は伴四郎の同居人・大石直助の弟、房助(白井房助)も同じ藩士で、たびたび連れ立って外出している親しい友人たちです。

「不動さん」とは、いまでも一ツ木通り沿いにある「赤坂不動尊」威徳寺(いとくじ)のこと。真言宗のお寺です。この日はお参りに行かなかった伴四郎も、8月17日には坂下(赤坂の町)で偶然房助に出会い、その後一緒に「不動さん」に参詣しています。

この威徳寺の境内には現在、「紀州徳川家御祈願所」の石柱が建っています(写真)。具体的にどのような関係だったのか未詳ですが、紀州家ゆかりの寺ということで、藩士たちの参詣も多かったのでしょう。日記に記されたように、藩士の間で「不動さん」と呼ばれ、親しまれていたことが窺えます。

下の図は、伴四郎たちが訪れた3年後、文久3年(1863)作成の威徳寺の境内絵図です(「諸宗作事図帳」、国立国会図書館所蔵)。同寺の境内は、西側の台地と赤坂の町の間の傾斜地にありました。その一帯は本書『写真のなかの江戸』の写真14の画面にも収まっています。181頁のバルーン13が同寺付近ですが、残念ながらどれが寺の建物か判別は難しいところです。

威徳寺の表門は絵図右側(東側)の「一ツ木町通」(現・一ツ木通り)に面しており、左側に描かれた不動堂は高台の上にありました。そこは昔、眼下に溜池を望む「風光絶佳の地」(『赤坂区史』)だったといいます。不動堂付近からの眺望も、参詣の目当ての一つだったのでしょう。

さて、威徳寺はつい最近まで江戸期と変わらぬ傾斜地にあって、不動堂も同じく台地上に建っていましたが、現在ではビルに建て替えられ、あわせて地面も大きく削り取られました。

奥がビルに変わった威徳寺。この一階が不動明王を祀るお堂になっています。また手前には、とにかく派手な看板が目立つあのお店も。これが、伴四郎たちが参詣してから160年後の風景です。

もし伴四郎がこの風景を見たら…もちろん、まずは驚くと思いますが、好奇心旺盛な彼のことですから、激変した「不動さん」とその門前を見て、きっと面白がるのではないでしょうか。

(つづく)