『写真のなかの江戸』を歩く 第7回 「赤坂の町並み」その7

前々回(第5回)、現在の暗渠部分の水路を描く江戸期の地図(江戸図や切絵図)が見当らないとしましたが、文献史料を見直したところ、その一部を描いた絵図が見つかりました。

上の図は「玉川上水留」[83](安政6年、1859)の113コマ(国立国会図書館所蔵、NDLオンラインでネット公開)。向きは原史料のとおりで、左上が南になります。

右側2か所の「町屋」が元赤坂町。大下水が上(西側)から来て、左の赤坂見附方向へ折れ曲がっています。町屋の間を通る道が大下水と交わる○印の箇所が、現在の暗渠の東端部、すなわち前回(第6回)の現状写真(1枚目)の撮影地点になります。

○印の下、梯子状の記号で表された橋は、下の「町方書上」[32]の21コマ(同前)に見える「土橋」(どばし)です。元赤坂町の「町内中程」にあって大下水に掛かっている、というので、この橋で間違いありません。

土橋とは表面を土で覆った橋のこと。「往来埋土橋」とあるので、水路の上も変わらず土の路面が続いていたようです。橋際の地主4軒が修復を担ってきた、とも記されています。

現在、暗渠(大下水)の行く先の敷地(図で土橋の下側)には、ALSOK本社ビルが建っており、ここから下流には水路の跡は残っていません。

ところで、小著にも書いたとおり、江戸期には弁慶堀に沿って玉川上水が開渠で流れていました。それが図に見える「上水堀」です。江戸の西側から市中に入った玉川上水は四谷門外(現・四ツ谷駅西側)で、まっすぐ江戸城へと向かう筋と、南に折れて赤坂見附に向かう筋に分岐していました。

左の「丸太矢来(やらい)」は、水路(上水堀)への人の侵入を防ぐための囲いです。「玉川上水留」の別の箇所では、「人除(ひとよけ)矢来」とも記されています。

大下水の屈折点から、上水堀を跨いで弁慶堀へと通じる細長い構造物が描かれていますが、そこには「上吐渡箱下水」とあります。箱下水とは長方形断面の下水管のこと。おそらく大下水の増水時、水が溢れないように、ここから弁慶堀に吐水していたのでしょう。これは、前々回(第5回)に載せた明治16年の地図(『五千分一東京図測量原図』)にも、よく見ると朱線で描かれています。

(つづく)