本書では触れていませんが、実はこの弁慶堀に沿った玉川上水、【写真14】に写っているのです(執筆段階でうっかり失念しており、気づいたのはレイアウトが出来上がってからでした…。ゆえに180頁の写真には番号が付いていません)。
玉川稲荷神木のイチョウ(180頁03番)の右手奥に塀のようなものが見えますが、これが前回(第7回)の図にある丸太矢来。その手前、蓮の葉に覆われた弁慶堀との間を通る水路が上水堀です。遠景には元赤坂町とみられる家屋もうっすらと写っています。
ちなみに、この場所の玉川上水がもっと広い範囲にわたって、はっきり写っている古写真も現存しています。ベアト撮影の弁慶堀の写真で、撮影時期も古く(おそらく最幕末)、画面には【写真14】よりさらに右手まで捉えられています。
ただ、ほぼ同じ場所なので、本書では、時期は明治初期に下っても赤坂の町並みが広く写った【写真14】のほうを選びました。ベアトの弁慶堀の写真は、『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館、1987年)の95頁に掲載されています。
明治期の地図と比較すると、現在の弁慶堀は当時よりだいぶ幅が狭く、外堀通りの用地として南側が埋め立てられたようです。ということは、上水が通っていたのは、現在の元赤坂側(堀と反対側)の歩道あたりと思われます(写真左)。
上の図は「玉川上水留」[10](天保7年、1836)の35コマ(国立国会図書館所蔵、NDLオンラインでネット公開)。向きは原史料のとおりで、上が南です。
このように玉川稲荷の手前で上水堀は直角に折れ、暗渠となって赤坂門外の広小路(現・赤坂見附交差点)の地下を通っていました。図で「石垣埋樋」と記されている部分です。上水はここから溜池に沿って虎ノ門方向へ向かっていました。
図の○印が赤坂表伝馬町一丁目(【写真14】、180~181頁07番)の北角、瓦が落ち斜材で支えられた町屋の位置になります。
また、本書183頁の「市中取締続類集」の絵図(安政4年、1857)に「植木御植付場所」(181頁10番)とある部分は、上の図では「草花植付場」となっています。【写真14】で、赤坂門の坂道左手の畑のように見えるところです。
(つづく)